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ハワイの歴史
Ina mo 'olelo a O ka wa kahiko o ka wa kahiko
この国の遠い昔の 物語を

ハワイの島々の歴史や伝説について現代ハワイの背景を知り
ハワイをもっと知るために、
たくさんの本を読み、自分流に理解できたハワイの歴史を書いてみました。
@ハワイアンは何処から来たか? Hリリウオカラニ王女(カラカウア王の妹)
Aクック船長の悲劇 Iドール大統領と共和国
Bカメハメハ大王(メハは孤独の意味) Jアメリカ併合と50番目の州に
Cカメハメハ2世(リホリホ) K幻のロイヤルウエディング
Dカメハメハ3世(2世の弟) L太平洋戦争と日系人
Eカメハメハ4世(3世の甥)
初代の孫アレキサンダー・リホリホ)
Mワイキキのファーストレディとピンクパレス
Fカメハメハ5世(4世の弟ロッド) Nピクチャーブライズ
Gルナリロ国王・カラカウア王 O通り名やその他の名前として、
いまも親しまれている王族

@ハワイアンは何処から来たか?
〜ハワイ諸島のなりたちと海洋民族渡来

約2500万年前にクレー環礁・ミッドウエイ環礁を出発点として、
その東南で次々に海底火山が爆発し隆起がおこり、
その後プレートの動きと反対方向の南東に島々が連なって形成されたのが
現在のハワイ諸島で、古い順に日本に近い方から
約500万年前にカウアイ・ニイハウ、
約300万年前にオアフ・モロカイ・ラナイ
約100万年前にマウイが誕生し、
その後カホオラウェ・ハワイ島が
ハワイアン・チェーンと呼ばれる火山脈上に誕生したのです。

太平洋プレートを突き破って海底から吹き出す玄武岩のマグマが
積み上げられてできた隆起火山の島々がハワイで、
一番古いカウアイは永年の波や風雨による浸食で
険しい断崖・渓谷・山脈がみられ、
ハワイのグランドキャニオンとも呼ばれています。

また一番新しいハワイ島では東側の活火山キラウエアが活動中で、
海底ではロイヒと呼ばれる海底火山の噴火とその堆積物が発見されていて、
遠い将来この隆起が海面上に顔をだすと新しいハワイの島の誕生になるかも・・・。

この太平洋プレートの大部分は年間約6センチづつ日本に近づいていて
日本海溝などから地球の内部に潜り込んでいるそうです。
はるか未来には日本の沖にカウアイ島が見えるようになるらしいです。
(茨城沖合で1億年はかかるそうです。)

この太平洋上の無人の楽園に人が住み始めたのは紀元3〜4世紀頃で
マルキーズとタヒチからやってきたポリネシア人と言われています。
(その人々も、もとは東南アジアから東に移動してきた人々で私達日本人と同じ
モンゴロイドとも言われています。一説にはラピュタ人といわれています。)
最初にやってきたのは非常に小柄な人々で
伝説のこびと族メネフネではないかと
言われているようです。

その後紀元14〜15世紀頃のポリネシアン大航海時代に
再びタヒチから大型の双胴セイルカヌーで大挙移住、
ハワイのポリネシア古俗石器文明の時代が
約200年前まで続いたと言われています。
しかし文字を持たない文化のため、
伝説や口伝の中から推測するしかないようです。
ただポリネシア全域に広がる習慣や文化との
共通点が非常に多くみられるようです。
また、当初の原住民といわれたメネフネの一族は
後続の移住者の奴隷とされたようで、
伝説の中にのみ残る人に姿をみせないが
器用な民族と言われていました。
後に大挙してハワイを去った。

その当時は陶器や土器・鉄を知らない生活を送っていたようで、
壺や食器としてひょうたんを用い
木の幹をすいてタパ(布)をつくり生活用品としていたそうです。

ハワイアンの原始宗教では神官(カフナ)をかねた
王(アリイ)や大酋長が厳格なカプ(タブー・戒律)制度と
ルアキニ(人身御供)の制度のもと、
神聖なヘイアウ(神殿)には主神ロノが祭られ司祭や
高僧と貴族を頂点とした階級制度があったようです。

ヘイアウにはルアキニヘイアウ(犠牲)と
プウホアヌ(避難)の2種類があり、
主神クを祭るルアキニヘイアウは人身御供が行われていたそうです。
古代の人々には偉大な人物の肉体を食することで
その偉大なマナ(霊・力)を得ることが
できると信じられていたようです。
またプウホアヌヘイアウは駆け込み寺の機能を持ち、
殺人・強盗・カプ(戒律)を犯したものなどでも、
ここにたどり着き、カフナ(僧侶)にお祓いをうけることができれば
守護神の助けにより、いかなる刑罰からも逃れることができたそうです。
(ただし、ほとんどの人がたどり着けなかった。)

これらの大神殿の他にも食物・農作物・果物・魚の収穫・雨・病気などを司る神の
小さいヘイアウがハワイ諸島に無数に散財していたそうです。

カプはただ王族(アリイ)のための戒律や
人権侵害の弊害というだけではなく、
実際には必要な量以外は収穫しない=資源保護とか、
人々の生活規則(規律・法律)と
いった意味も持つ理にかなう制度でもあったようです。

Aクック船長の悲劇


1779年ハワイ島のケアラケクア湾に
イギリスの探検家ジェームス・クックが2隻の船で到着しました。
前年の暮れにハワイ諸島を発見しパトロンの名にちなみ、
サンドイッチ諸島と名付けていました。
おだやかな湾を探して島のまわりをまわっていたのですが、
上陸したその時期原住民は新年の祭り(マカヒキ)の最中で、
海からやってきた白人を伝説の主神ロノ神の化身と考えて供物を捧げ
宴を催して大歓迎したそうです。

収穫神ロノ神は島を周回し海上からやってくることになっていたのと、
船のマストの白旗もロノ神のシンボルカパの布を思わせたというのが、
誤解の原因となりました。

様々な歓待を受けたあと出発したクック一行でしたが、
4日後に嵐にあいマストが折れやむなく引き返してきたのですが、
すでに祭りは終わりこれまで通りの階層社会が営まれていたこともあり、
また神は嵐に負けないはず=うそつきという構図や実際には神のせいで
首長や神官の権威が軽くみられるなどの理由から、
島民との間に対立が起こりやがて抗争となってクックをはじめ数人の船員が
惨殺されてしまったそうです。

その15年後(実際には1801年)に白人の力をかりて
全島統一をはたしたのがカメハメハ王です。

Bカメハメハ大王(メハメハは孤独の意味)


1795年4月ハワイ島のカメハメハ大王はオアフ島へ侵攻、
ヌウアヌパリの戦いで大勝利を納めると、
1804年に王宮をマウイのラハイナから一時ホノルルに移し、
カウアイ島の侵攻を計りますが、これは失敗。
1810年にカウアイ島のカウムアリイ王と講和条約を結ぶことにより、
ハワイ全島を統一、ハワイ王朝の始まりです。
一説にはこの時欧米の銃器や文明を取り入れ、
白人のアドバイスによる力を駆使しての統一だったようです。
それがその後の王朝の崩壊にもつながっていったのですが・・・。

その後、ボストンからやってきたキリスト教の宣教師や貿易船の
商人・捕鯨の船乗りによって急速に西洋文明を吸収するとともに、
逆に未知の病気の蔓延や資源の乱獲にもあってしまう
ことになっていきます。他を排斥しない民族性は急激な混血も産み出します

カメハメハ大王はハワイ島ヒロ、マウイ島ラナイナ、ハワイ島カイルア・コナと首都を移し
1819年5月8日に永眠しました。

白人の力を借りて全島統一をはたした王は欧米の文明を取り込むことに熱心で
外国との貿易を盛んにし、貴重な白檀(サンダルウッド)の木を王家の独占とした結果、
そのせいでハワイからは絶滅してしまったそうです。
いまでは少しずつ移植がされているとのことです。

そんな王でしたが、こと生活習慣や宗教に関しては伝統を重視した
保守主義者だったそうでハワイの伝説に基づく古来の神々を崇拝、
祭祀場であるヘイアウを建立し、
タブーを犯した者には容赦のない罰を与えたそうです。

滅多に笑わない気むずかしい人物で孤独の人物だったと伝えられ、
統一からわずか9年で亡くなりました。
ちなみに裁判所前の銅像は本人ではなく、
見栄えの良い従者を銅像としたといわれています。
肖像画ではいかめしい顔の王をみることができます。
たしかに銅像はおだやかな笑顔の美男子?

ちなみにカメハメハは自分の血統を証明するために
ナハ族の正統な血筋を試す力を持つ石で、
全島を統一する男が動かすことのできるという伝説の
ナハ石を持ち上げ覆したといいいます。
この石はいまでもハワイ島ヒロの図書館の前庭にあるそうです。

Cカメハメハ2世(1世の息子リホリホ)


1819年、1世の跡を継いだリホリホは2世を名乗るとともに
伝統的制度や宗教を廃止しました。
これは実際には2世の摂政(クヒナ・ヌイ)となった前王の王妃の中の
一番の実力者カアフマヌ王妃の実権によると言われています。

前王妃は、それまで男女同席で食事をすることは重大なタブー(カプ)とされていたのに、
宴会に婦人を同席させカプを利用した大王の統治と正反対に
古い伝統を破壊していきました。

しかし王や前王妃に何もおこらなかったので、
人々はそれまで信仰していたロノ・ク・カナロア・カネなどの古来の神々や
宗教・厳しい戒律・伝統・習慣を放棄するようになりました。

ハワイ伝統宗教が勢いを弱めた頃アメリカのプロテスタント伝道師団が
来訪布教活動をはじめます。
1820年にサーストン牧師は文字を持たなかったハワイに文字をあてはめ、
ハワイ最初のモクアイカウア教会をハワイ島に建て、聖書も作りました。

ハワイ最初のキリスト教徒は2世の王妃ケオプラニで、カアフマヌや
マウイの女酋長カピオラニも率先して改宗し、
伝道師は印刷技術と学校技術を持ち込み半裸の人々に服を強制し、
フラやサーフィンを禁止させたのです。

カプの廃止を宣言したあとも人々は女神ペレを恐れる迷信を信じていたのですが、
カピオラニの挑戦の成功などにより、次第に恐れるものではないということが知れ渡り、
多くのハワイアンがキリスト教に帰依したそうです。

この2世は王妃とともにロンドンではしかにかかり在位わずか5年で亡くなります。
1821年オアフ島のホノルルにカワイアハオ教会が建設され、
宣教師たちの保護や水・食料の補給のため
アメリカ合衆国の軍艦がホノルル港に投錨するようになりました。

Dカメハメハ3世(2世の弟カウイケアオウリ


当時10才で即位し、3世となるが、
実際には先の王の後見人カアフマヌ王妃が引続き摂政(クヒナ・ヌイ)となり、
その権力と発言権は彼女が亡くなる1932年まで続いたそうです。

3世の治世は王朝の中では最長の約30年間で政治体制の近代化に努め、
1845年にホノルルがハワイ王朝の首都となります。

1848年「グレート・マヘレ法」が施行され、
ハワイの土地を白人たちが入手する契機となります。
実際にはすべてのハワイ人が土地を持ったのですが、
権利関係に無頓着だった人々は土地を手放してしまい、
そのほとんどが白人のものになっていきました。

当時投票権を持つ男性はハワイ王国の全男性中30%に過ぎず、
そのほとんどが白人であったそうです。
投票権を持つためには3000ドル以上の財産
または年収500ドル以上とされていたため
王国の実権は少数の白人土地所有者たちの手に握られていたのです。

また白人所有の土地には砂糖キビ耕地が広がり、
そのため労働者確保のために、まず中国その後日本・韓国・フィリピン
・ポルトガル・プエルトリコなどから移民が奨励されました。

ハワイの内閣はほとんど外国人で占められ、全員がアメリカ・イギリス人などで
ハワイに帰化していたそうです。
アメリカ・イギリス・フランスに独立国家として承認はさせたが、
各国は自国の領土にしようと狙っていたのです。

Eカメハメハ4世(3世の甥・初代の孫アレキサンダー・リホリホ)


1854年3世の死後王位についた4世はアメリカの驚異を恐れ
閣僚からアメリカ人を排除し、イギリスびいきの政治を行いました。
また4世はその好みもイギリスで、英国式正装に身を包み
舞踏会をひらき、乗馬・クリケットを愛したそうです。

王の王妃エンマは病院の創設など社会福祉への貢献で
名高くその美貌も有名だったそうで
いまも人々に慕われているそうです。
優雅な王宮風俗をつくりあげた4世でしたが、
在位9年の短さで29才の若さで夭折したそうです。

Fカメハメハ5世(4世の弟ロッド)

1963年即位するが兄同様アメリカのハワイ併合を危惧し、
イギリス寄りの政治を行うが9年後に亡くなる。
彼は生涯独身だったためカメハメハ王朝は終焉を迎えることになります。
一説には先王の王妃エンマを慕い妻をめとらなかったといわれているそうです。
代々の王族は近親婚を繰り返したことの血の濃さと、
欧米からの病気などで短命な一族となってしまいました。
(そうすることで偉大なマナが受け継がれると信じられていた。)
この時初代王直系のただ一人の血統者である末裔の女性
バーニー・パウアヒは王位継承を辞退し、
王族の中から選挙による王が選出されることになります。
バーニー・パウアヒは現ビショップ博物館の創設者ビショップ氏の妻で、彼女の死後、そのコレクションや王族の宝などが、
博物館として展示されることとなりました。

Gルナリロ国王とカラカウア王

5世の死後、カメハメハ家の継承が途絶えた為、
王位には選挙で王族から ルナリロ王が選ばれたのですが、
この王は即位1年程で肺結核により死亡、
その後カラカウア王(→)が選出され専制政治を行うこととなります。

1874年デビット・カラカウアが王位に就き、
ハワイ文化の復興を試みたり、
世界漫遊の旅に出たりとその威厳がありながら陽気な性格は
メリーモナーク (陽気な君主)という愛称で呼ばれ
人々に人気が高かったそうです。
7月には「この木何の木気になる木〜♪」のCMで有名な大きな木のある
モアナルアガーデンで、メリーモナークフェスティバルとう
フラのイベントの名にもなり、
いまも庶民から親しまれている王です。

即位の翌年1875年にアメリカとの間に通商互恵条約を締結、
ハワイ−アメリカ貿易は無関税となり
ハワイ産の砂糖は大量にアメリカに出荷され、
その利益は莫大なものになったが、
同時にアメリカ依存が強くなったようです。

王は1881年に日本にも立ち寄り明治天皇と会見、農業労働者として
さとうきびプランテーションへの移民を働きかけ、
1885年には日本からの官約移民が実現。
その業績からハワイ日本人移民の父ともたたえられたそうです。

王はカメハメハ2世の時代に禁止された
フラ・ダンスやハワイアン音楽・サーフィンなどを
復活・振興させ、民族の誇りを取り戻すことに努めたようです。
サマーハウスではルアウ(ハワイアンスタイルの宴会)を開いては
小説家のロバート・ルイ・スティーブンソンなどを招待したといいいます。
他にもマーク・トウェインなどがハワイの良さを
欧米に紹介したきっかけとなったようです。

その後王権を制限する新憲法に調印を余儀なくされたり、
アメリカ占有地を認めさせられたり
一部では白人政府の傀儡と言われてもいたようですが、
それでも王は白人支配を危惧し、
日本をはじめ環太平洋の国々に連盟をよびかけたけれど、
実現せず療養で訪れていたサンフランシスコで
在位17年の生涯を閉じたそうです。

Hリリウオカラニ王女(カラカウア王の妹)

ハワイ王朝最初で最後の女王でカラカウア王の妹のリリウオカラニ女王は即位後、
〈ハワイ人のためのハワイ〉を標語にハワイ原住民の持つべき権利を取り戻す
新しい憲法を発布する準備をして王権の強化を願ったが、
すでにこの時ハワイの土地の3分の2までが外国人に支配されていたのと、
この女王の君主権力を危惧し新憲法公布の情報を
事前に察知したアメリカ人ローリンサットンら併合を推し進める白人グループは
急遽1893年1月16日ホノルル港に寄港中だったアメリカの軍艦ボストン号の兵士たちに
大砲・機関銃で武装させ、イオラニ宮殿をはじめ政府の主要な建物を占拠させ、
女王はじめ側近の者たちを幽閉してしまったそうです。

1893年3月、サンフォード・B・ドールを総裁とする新政府ハワイ共和国樹立により
ハワイ王朝は幕を閉じることとなったそうです。

それでもリリウオカラニ女王は王位奪還を計り反乱を計画したが捕らえられ、
イオラニ宮殿に幽閉されてしまいます。
この時王女はドールに書簡を送り王位を放棄するかわりに反乱に加わった者たちの罪を
軽くするよう懇願したと言われています。

その後リリウオカラニ女王の姪カイウラニ王女は王政復古を願い渡米したが
その時点では叶うことはなかったのです。

Iドール大統領と共和国追いやられたハワイアン

約150年前まではもともと湿地帯だったワイキキ(水が湧き出るところの意味)は
ハワイアンの主食であるタロ芋畑や養魚池が広がる静かな海沿いの沼地だったそうです。
ビーチにはココナッツが植えられ、その木陰には漁師達の小屋が建ち並び、
豊かな湧き水と大地と海の幸に恵まれた雨の多いマノアから吹き降りる風で涼しく
過ごしやすい気候で、代々のチーフや王族達に避暑地として愛された土地だそうです。

本来はビーチの砂は白くはなく、ワイキキビーチのイメージアップのために
他の島から運ばれた砂が白いそうです。
ただ波の浸食が激しく、ビーチが年々狭くなっているとか・・・?
予防のための防波堤も時には逆に作用し、
砂の流失は続き沖合の珊瑚が心配されているそうです。

ドールが大統領となりハワイ共和国が生まれ、
ワイキキの観光開発が急速に進行すると
(1901年モアナホテル誕生)ワイキキにあった
水田や養魚池は衛生対策の名のもとに
アラワイ運河の掘削で出た土により埋め立てられ造成地は500エーカーに及び
地価は30倍に跳ね上がったそうです。
そしていまのワイキキの原型の誕生。
それにより工事を請け負ったデリンハムはじめ白人資産家たちは
莫大な富を手に入れ、それに反して海と水とタロや農耕技術を奪われた
農民や漁民である原住民たちの生活は悲惨なものになっていったそうです。

また、外来の病気の蔓延による大量死と、
移民による混血がすすみ純粋なハワイアンは激減し、
その文化はおろかハワイ語でさえも
公用語の英語におされてなくなっていったそうです。

現在は混血を加えることで増加に転じはじめ、
ハワイ総人口の約20%まで復活してきたようですが、
北米のインディアンと同じように山奥に居留地があり、
ハワイアンだけの村もあるようです。
ただし、国に没収された元々はハワイアンの聖地とされた場所やかつての神殿跡
ヘイアウなどの返還はまだされないままだそうです。
ちなみにこのドールの弟のジェームス・ドールが創設した会社が
パイナップルで有名なドール社。

Jアメリカ併合と50番目の州に

新政府はアメリカとの併合を望んだが、
当時の大統領はハワイが多民族国家であることの
難しさを危惧し、承認を渋ったので白人議会の共和国を結成した。

やがてアメリカとスペインが戦争となり、
ハワイはアメリカ大陸とユーラシア大陸を結ぶ
重要な中継地と認識されはじめ、
もしこの島々が他国の領土となればアメリカにとって
強大な驚異になるため1898年8月連邦議会は併合決議を可決、
併合されハワイは準州となりアメリカの領土となりました。
そして61年後の1959年8月にアメリカ50番目の州になります。
また1993年11月23日アメリカ大統領ビル・クリントンにより
謝罪法案130−150法案が調印されたが、
これはアメリカ合衆国がハワイ王朝の転覆に対して策謀が存在したことを
公式に認め、先住民でありその王国を構成していた
ハワイアンに正式に謝罪したものだそうです。

K幻のロイヤルウエディング

カラカウア王が日本訪問の際、将来の列強との関係をにらみ、
日本の皇族 (山階宮・東伏見宮依仁親王当時15才)と
ハワイ王朝(カイウラニ王女当時6才)の
縁談 も申し込まれたが、日本皇族は日本人純血の血を守ってきていたこと、
アメリカとの関係の悪化を懸念する事等で実現されなかったそうです。

またカイウラニ王女は「それが絶対的に必要であるというのでない限り、
愛していない方と結婚することはできない」と答えている。
その聡明さと写真に残る美しい姿には心をうつものがあります。
しかしこの二人は生涯あうことはなかったようです。

1893年リリウオカラニ女王が退位、ハワイ王朝が崩壊した直後、
在留日本人保護のためホノルルに寄港していた軍艦に
宮は乗船していたけれど、カイウラニ王女はイギリス留学中だったそうです。
王女はカラカウア王の妹リケリケ内親王の娘で
スコットランド人の父を持つとても美しい女性で、
ハワイ王朝の復活のためにアメリカに渡り運動をしたが、
聞き入れられなかったとのこと。
その後24才の若さで結核で亡くなったとのことです。

この国際的なエピソードは1914年ホノルル市ヌアヌ青年会主催の席で
はじめてあかされた秘話だったそうです。
いまのプリンセスカイウラニホテルのあたりに王女が育ったアイナハウと
よばれる屋敷があり今も敷地内には王女が
よく腰掛けたという岩が残っているそうです。

L太平洋戦争と日系人

1941年12月7日早朝の日本軍のパールハーバー奇襲ではじまった太平洋戦争。
ワイキキビーチには有刺鉄線がはられ一般人の立ち入りは禁止され、
従軍関係者専用の保養地となったそうです。
そのころハワイ社会での基盤を築いていた日系社会では
日米開戦により敵性国民のレッテルをはられ、
ジャップとののしられ大打撃を受け、コミュニティのリーダーや
各会社の代表者、日本語学校の教師などの男性は
収容所に入れられた人が多かったそうです。
アメリカ本土ほどではなかったようですが、
日系人の財産は没収され苦しい生活が始まったのです。
ハワイうまれの日系2世たちは
ハワイ在住の日本人社会のために
自ら従軍し第100大隊と本土と
ハワイ出身者で構成された第442部隊は
ヨーロッパ戦線の最前線で命がけで戦績を残し
米陸軍史上比類なき功績を打ちたて、
最高勲章である紫心章を数多く受賞し、
トルーマン大統領は「前アメリカの誇り」と敬意を表したそうです。
それ以降白人の日系人社会に対する偏見の減り
社会進出も飛躍したそうです。
しかしその影でたくさんの若者を失いました。
彼らはいまに続く日系人たちの名誉を守った英雄として尊敬されているそうです。
写真は彼らの多くが静かに眠るパンチボウルです。

Mワイキキのファーストレディとピンクパレス
1901年3月11日ワイキキ発の
本格的ホテルであるモアナホテル
(現シェラトンモアナサーフライダー)がオープン。
いまもワイキキのファーストレディと呼ばれ中心部に建つ、
コロニアル様式の白い優雅な装飾のホテルです。
この場所が当時も今もワイキキの中心になります。
その後1918年の増築でうまれたバニヤンツリーの中庭では
1935年から72年までハワイアンコールズという
世界中で人気になったラジオ番組が放送されたそうです。
それまでリゾートといえばヨーロッパが中心でしたが、
この放送により楽園ハワイを世界中の人が知ったそうです。

1927年2月1日にはカアフマヌ王妃のサマーパレスがあった
王族のヤシ園の跡地にロイヤル・ハワイアンがオープン。
プリンセスカワナナコアはじめ正装の紳士淑女の1200人もの
盛大なパーティが行われたそうです。

スパニッシュムーア様式の建物はピンクパレスとよばれ
世界各国の王族・政財界の大物・ハリウッドスターなどが利用、
太平洋戦争中は軍に接収され海軍将校の宿舎兼休養施設となりましたが、
戦後返還され、1947年には化粧直しをされて
現在のピンクパレスになったそうです。
いまも6年に一度の化粧直しのおかげで変わらぬピンク色を保っています。(写真右)

Nピクチャーブライズ

写真花嫁。明治元年1868年から始まった日本人移民ですが、
1900年頃にはたくさんの職にあぶれた日本人が公園や路上にたむろし、
日本人売春婦もかなりの数だったそうです。
ホノルルにはヤクザ組織もあったようです。

このため日米紳士協定により新しい移民の渡航は禁止され、
在留日本人労働者の近親者と写真結婚者のみが呼び寄せられることになりました。

互いに写真を取り交わし、話しがまとまれば日本で入籍して3ヶ月後にハワイに
呼び寄せるという写真花嫁が1908年頃から大挙して海を渡ったそうです。
しかし、写真が若いときのものだったり修正されていたりして、
現実には別人のようだったり
履歴なども偽りが多く
たくさんの悲劇がうまれたそうです。

悪質な斡旋屋や仮夫婦・替え玉渡航などにより
売春婦を送り込んだりの問題もあったようです。
不幸な例ばかりではなく、その後に続く縁もあったようですが、
いづれにしろ真珠湾攻撃以降戦中・戦後を通して
日系人の人たちの苦労は
想像を絶するものだったといいます。

O通り他の名前として、いまも親しまれている王族

通りの名前になっている王族としてはカラカウア・クヒオ・カメハメハ・カピオラニ・
リホリホ・リリウオカラニ・ルナリロなどがある。
クヒオ王子は〈庶民の王子〉として人々に親しまれ、現在のクヒオビーチは王子が
所有していた土地を死後ホノルル市に寄贈されたため名付けられたそうです。
王子はハワイ王朝崩壊後の1902〜22年ハワイ代表として
初めてアメリカの代議士を勤めた人物だそうです。

プリンスクヒオ・ロイヤルクヒオなどホテルやコンドミニアムにもその名が冠されています。
カピオラニ王妃の名は公園や通り・クイーンカピオラニホテルなどに冠されているが、
王妃はカラカウア王の愛妃でした。(カピオラニ公園はカラカウア王の寄贈した土地)

またカイウラニ王女の名を冠したホテルプリンセスカイウラニのあたりは
王女が暮らした邸宅の跡地になり、
いまもホテルには王女がよく腰掛けたという岩が残っているそうです。

プリンスロットフラフェスティバルはハワイ王朝初代から5世までの
ロット・カメハメハ一族に捧げるイベントだそうです。

6月11日にはカメハメハデーがあり、
カラカウアSTなどでパレードなどのおまつりがあります。

ハワイの名曲アロハ・オエを作った最期の女王リリウオカラニなども
通りの名や自然公園の名になっていて、
7月の女王の誕生日にはロイヤルハワイアンSCで
女王を偲んだコンサートが行われていました。
参考図書とさせて頂いた書籍と作者を最後にご紹介しました。
興味のある方はぜひ、ご一読ください!!
☆参考図書☆
ハワイ・マナ        中野次郎 集英社
ハワイさまよえる楽園   中嶋弓子 東京書籍
ハワイイ紀行        池澤夏樹 新潮社
ハワイ             山中速人 岩波新書
ハワイ・南太平洋の謎    秋道智彌 光文社文庫
ハワイ太平洋の自然と文化の交差点 津田道夫 社会評論社
        虹の絆           毛利恒之 毎日新聞社

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